「彼女はすばらしい選手。たくさんの可能性があると思います。」
先日、東京で開催されたテニスの東レ・パン・パシフィック大会の準決勝。勝者シャラポワ選手が戦いを終えて、相手となった日本人選手について聞かれた質問に対して、答えて言った言葉です。
17歳のシャラポワ選手が10歳以上年上の選手について、このような表現をしたことについて、多くの日本人が驚きました。「生意気な」と非難をした人も少なくなかったかもしれません。
でも、私は、彼女はこの言葉を、心からそう思って言っていたと思います。正確に言うと、決勝で勝つためには、この言葉は彼女にとって必要不可欠であったと思うのです。
始めて、アメリカでの大会に出場した時、レベルの高さはもちろんのこと、ダンスの本場の華やかで荘厳な雰囲気―――――見るもの聞くもの、あらゆることに驚き、感動しました。でも、私を何よりも驚かせたのは、出場選手の言動でした。
「すばらしい演技だったわ。」
「あなたの演技に感動して、涙が出そうだったわ。」
演技が終わり、控え室にもどろうとする私たちに対し、すれちがう選手が、みな、それぞれに握手をもとめ、肩を抱き、あるいは頬ずりをして、口々に、私たちの演技に対する賞賛の言葉を言ってくれました。今から、もう25年以上も前のこと。当然のことながら、遠くアジアのダンス発展途上国からやってきた私たち日本チームの演技がアメリカのチームのそれに比べたとき、それほどの賞賛に値するものであったとは思えません。
私など、その演技にあこがれて、ビデオで何度も目にしていたチームの選手から、
「素敵だったわ。」
と、言われた時には、むしろ恥ずかしくて顔から火が出そうでした。
出番待ちをしているチームの選手が、演技を終えた選手達に対して、賛辞を送り、逆に
先に演技を終えた選手が、これから演技をしようとしている選手達に心からのエールを送っている(別に親しい関係にあるわけでもなく、始めて出会った選手にたいしても、そうするのです)その光景は、はじめてそれを見た私にとって、うるわしい友情の感動的な場面というよりも、むしろ驚異的なものでした。
ダンスやチアーだけでなく、アメリカ人のアスリート達が、ジャンルにかかわらず、あらゆるスポーツシーンで互いに健闘を称えあい、また、賞賛の言葉を送りあっているのをよく目にします。
大リーグでも、マーク・マグワイヤ選手とサミー・ソーサ選手が熾烈なホームラン王争いをしていた時に、相手が1本打つごとに、互いにその才能や努力、そしてその記録の重みについて、賞賛をしあっていたのを、ニュースなどで、ご覧になった方も多いのではないでしょうか?
ニューヨークのケネデイ国際空港で演技を披露させて頂いたことがありました。演技が終わった時、かわいらしい少女が、ひとり、そばにきて、そっと握手をもとめ、
「夢をみているように素敵だったわ。」
と、言ってくれた時には、うれしいという気持ちはもちろんのことですけれど、そのような感情表現により、他人をほめるという行為のできる、その少女の勇気と心の大きさに深く感動をしたものでした。
1流のアスリートのみならず、小さな子供にまで、浸透している、アメリカ人の「ほめる文化」は、いったいどこから、どのようにして生まれたのか、不思議でたまりませんでした。
様々な方に、聞いてみました。その中で、アメリカの歴史の中で、脈々と受け継がれ、語り継がれているアメリカ人のスポーツ哲学のようなものが見えてきたような気がしました。
「否定的な言動は、相手に向けた途端に、自分にも跳ね返ってくる。批判したり、中傷したりすれば、言われた相手のみならず自分も否定的な、マイナスなイメージの中に陥ってしまう。自分の心の環境を整え、プラスのイメージの中に自分を置くことができれば、前向きに、積極的な気持ちで、戦いに望むことができる。
対戦相手なり、ライバルなりを、褒め称え、心からの賞賛を送ることで、その言動は、即、そのまま自分の気持ちをたかめ、より良い環境に置くことに大いに役立つ。戦う前の、心の環境を、よりプラスの状態にしておくことは、勝利への必須条件である。」
アメリカにテニス留学をし、アメリカで、その才能を開花させたシャラポワ選手が、
アメリカのそのスポーツ哲学に触れ、それを身につけていたとしても、不思議ではありません。
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